ジュラロス日記

断然イヌ派の私がネコを飼う。ミヌエットのレンとの日常。

結婚30周年

今日は30回目の結婚記念日。

銀婚式の時は特別おめでたいと思った記憶がありませんが、今年はコロナやロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見て、家族が生きているだけでありがたいと思っているからか、無事に30周年を迎えられた事をとても感慨深く思っています。

 

せっかくなので、出逢いから振り返ってみようと思います。

 

(ここからは私の備忘録です。)

 

199012月、参加するつもりのなかったスキーツアーに参加したら、同じく参加するつもりのなかった夫も参加していて、夕食時、偶然にも夫と私はオールブラックスのラガーシャツを着ていました。

 

スキーから帰って、夫と会ったりしていましたが、2つ年下の夫は生意気で天邪鬼で印象はよくありませんでした。

でも、車を運転中も助手席の私を見ながら喋って(危ないから、ちゃんと前見て運転して!)と思いつつ、夫の「masacoちゃん大好き過ぎる」オーラがビシビシ伝わってきました。

 

当時、夫は会社が嫌で辞めようとしていて、恩師や実家に相談しに帰省しましたが、私と付き合い始めたので、あっさり会社を辞めるのを止めました。

 

夫は、義母の影響でお相撲が好きで、初デートは『横綱』でちゃんこ鍋でした。

なので、国技館に大相撲観戦にも行きました。

入り待ちしていたら、遠くから曙が見えて、曙の大きさにビックリしました。

初めてのお相撲は、ライトを浴びたお相撲さんが博多人形のようにキレイで、立ち会いのぶつかる音が迫力があって、面白かった〜。

当時は若貴ブームでしたが、若貴の取り組みは記憶になくて、千代の富士が勝って夫と喜んだのを覚えています。

それが千代の富士1045勝目で、次の日に負けて、千代の富士は引退しました。

 

16アメリカ横断ウルトラクイズにも2人で参加しました。

東京ドームでの○×クイズの1問目を正解して大喜びしましたが、2問目不正解で予選敗退でした。

それがアメリカ横断ウルトラクイズ最後の年でした。

 

私は土日も仕事だったのですが、会社が休みの夫は朝、家まで車でお迎えに来て職場に送ってくれて、帰りもお迎えに来てくれました。

携帯電話のない時代、時間と場所で待ち合わせをして、夫に『朝は911分、帰りは1813分ね。』と言うと、私が911分に玄関を開けると夫のシビックが停まっていて、帰りも更衣室を1810分に出ると1813分には職場の近くにシビックが停まっていました。

雪の日は、早起きしてタイヤにチェーンを巻いて来てくれました。

 

二人ともスキーが大好きだったので、スキーにもよく行ったのですが、夫のスキーウェアはお友達からマタギと言われるほど地味でした。

夫は学生時代からスキーをやっていましたが、お金がなくて、スキーウェアはダイエーで見付けた紺の無地の上下をずっと来ていました。

 

でも、本人は全然ダサいと思っていなくて、『ダイエーでスキーパンツが5000円で売ってて、よ〜く見たら、小さく「Killy」って書いてあった。』と嬉しそうに話して、「Killy」のところだけ高く小さい声で言うその表現が面白くて、今も私は小さい物の話をする時、マネして高く小さい声で言っています。

 

それから夫が、子供の頃、食パンの耳を残すと、義母に『耳は一番栄養があるんだから食べなさい。』と騙されて食べていたと話してくれた事があって、子供の頃の夫は小さくて痩せていたそうなので、義母の残さず食べさせるための方便が微笑ましいなぁと思いました。

 

付き合い始めて1年が過ぎた頃、父が夫を連れて来るように言い、1度目は会社帰りに軽く挨拶に来て、2度目は週末に夕食(焼肉)に来て、父が実家は北海道だけど次男で転勤がない事を確認して、夫に結婚するのか聞くので、私は手が滑って持っていた焼肉のタレを夫のスラックスにぶちまけてしまいました。

夫が父に『はい、masacoさんを絶対幸せにします。』と宣言して、父が『じゃあ明日、駅前に新しくできるホテルに結婚式の予約に行って来たら。』と言い、夫からプロポーズされていないのに、結婚することになりました。

 

付き合っている間に、『今の言い方、感じ悪いよ。』などとズケズケ指摘しているうちに夫の天邪鬼な物言いは治り、急展開でしたが 、「Killy」と食パンの耳のほのぼのエピソードがあったから、出逢って1年半で結婚していました。

 

新婚時代、築何十年もたっていたオンボロ社宅に住み、夫は運行が始まったばかりの新幹線のぞみのモーターを作る部署にいて、のぞみにトラブルがあったりすると徹夜が続き、午前1時に帰って来た時に『今日は早かったね。』と出迎えるような異常な働き方をしていました。

仕事のストレスで、夫が私に八つ当たりする事があり、『会社が嫌な所で、家も雰囲気悪い所になったら、嫌な所だらけじゃない?会社が嫌でも、家だけはどんな事があっても楽しい所にしよう。』と提案して、それからは楽しい我が家になりました。

 

子どもは2歳違いで2人欲しいなと思っていたら、翌年、長男が生まれました。

予定日が33日だったので、お腹に向かって「桃ちゃん」と呼びかけていて、勝手に女の子だと思っていました。

224日の夜、ドラマを見ていたらお腹が痛くなり、大した痛みではないけれど10分間隔で、朝には5分間隔になったので病院に電話したら、『近いから我慢できないくらい痛くなってから来て下さい。』と言われ、物凄く痛くなってきて、15時頃、夫に付き添われて入院して、夫はビデオカメラを準備して陣痛室で一緒に待機していたのに、20時過ぎに夫がラーメンを食べに行っている間に生まれました。

 

それはそれは大変で、2人目は夫に産んでもらおうと真剣に思うくらい大変で、生まれてもすぐに泣かず、ちょっとたってからオギャーと泣いて、『はい、男の子です。』と生まれたての長男を見せられて、男の子だった事にビックリして、体が痩せっぽっちで目だけが大きくてE.T.にそっくりでビックリしました。

赤ちゃんの顔はどんどん変化して、入院中は当時の宮澤喜一首相にそっくりで、実家に里帰り中は、母乳をたくさん飲んでお相撲さんの小錦にそっくりでした。

 

長男は寝ないよく泣く赤ちゃんで、立って抱っこしないと泣き止まず、やっと寝たと思って、寝かせて、抜き足差し足で静かに移動中、足の骨がポキっと鳴っただけでまた泣き出し、やっと寝ても1時間か1時間半で起きるので、睡眠不足でフラフラでした。

32日の私の誕生日プレゼントは、「ねんころりん」というお母さんの体内音がする羊のぬいぐるみを夫に買ってもらいました。

 

明日、実家から社宅に戻るという日の夜、帯焼きだからと霜降り牛のすき焼きでお祝いしたら、夜中に体がガタガタ震え、熱を測ったら40度を超えていて、乳腺炎になって長男を母に預けて入院しました。

体は辛いし、長男と離れ離れで母乳を絞って捨てては悲しくて、母と長男が心配なのに、仕事帰りに夫がお見舞いに来て、『あー、疲れたー。早く戻ってきて。』と弱音を吐くので、『病人に、「体は大丈夫?家の事は心配しないでゆっくり休んで。」とか言えないの?そんなに疲れるんだったらお見舞い来ないで。』とキレたら、それ以来、私が体調悪いと、夫は『大丈夫?』と言うようになりました。

 

退院後、桶谷式母乳マッサージに通い、食事制限をして回復し、授乳期間、乳腺炎が怖くてご飯と温野菜メインの食事にしていたら、胸は巨乳で体はガリガリ峰不二子のような体型になりました。

 

夫は、激務なのに、お料理と母乳以外の家事と育児をやってくれていました。

今では笑い話ですが、マタニティブルー&睡眠不足の私は、出勤前に布団をあげて、洗濯機を回している夫に向かって『パパは何もしてくれない。』と号泣して、その頃の夫は成長して『masacoちゃん、大丈夫?落ち着いて。』と慰めてくれるまでになっていました。

 

3人家族になると2ドアのシビックは不便になり、4ドアの車に買い替える事になり、ディーラー巡りをしました。

最初に日産に行って、12マイルサニーを見たのですが、デザインが垢抜けない感じがして、次に藤井フミヤCMをやっていたスプリンターマリノがいいなぁと思ってトヨタのお店に行きました。

今ではあり得ませんが、赤ちゃんの長男を連れた私達とテーブルを囲んで説明する営業マンがタバコを吸っていて、私のこの世の中で嫌いなものワースト10にタバコとタバコの煙とタバコのポイ捨てが入るくらいタバコが嫌いなので、マリノがよかったけど、こんなお店の車は買いたくないと思い、カローラのお店に行って、マリノの姉妹車のカローラセレスを見ました。

とりあえず、パンフレットをもらって帰ったら、次の週末、その日は雪だったのですが、カローラの若い営業マンが雪の中、我が家を訪ねてきたので、その熱意に押されて、カローラセレスに買い替えました。商品も大事だけど、営業マンも大事と思った出来事でした。

 

長男が1歳になるかならないかの頃、夫が計画年休を取って、親子3人でグアムに行こうとJTBに申し込んで、楽しみにしていました。

なのに、直前になって夫の仕事がトラブり、高いキャンセル料だけ払って旅行に行けなくなった事がありました。

仕事だから仕方ないとわかっていても残念で残念で、『グアム行きたかったなぁ。』と何度も言ってしまい、これ以上言ったら夫がキレても仕方ないと思うくらい言ったのに、夫は謝ったり、『耳が痛〜い。』とおどけたり、全然キレず、高いキャンセル料払ったけど、夫が忍耐強くて温厚な人だからそれでよしとしよう思えました。

 

その後、希望通り2人目を妊娠して、私の人生計画通りと喜んでいたら、夫が北海道岩見沢市にあるグループ会社に出向になりました。

それまで、夫の帰りが遅い時や出張の時は頻繁に実家に帰っていたので、頼る人のいない岩見沢での育児が心配でどんよりした気分になりました。

旅行のガイドブックに岩見沢は載っていないし、インターネットのない時代は岩見沢の情報を集められなくて、どんな所か不安で、岩見沢市長さんに質問のお手紙を送りました。

広報課の方から、丁寧なお返事が届きましたが、分かったのは豪雪地帯だと言う事で、ますます不安になりました。

 

19949月、大きくなり始めたお腹と不安を抱え、1歳半の長男の手を引いて、夫と共に岩見沢に引っ越しました。

築浅の3LDKのアパートは、目の前が公園で、バス停が近く、快適で、それまで残業、休日出勤が当たり前だった夫が毎日定時で帰宅して、土日も休めて、行ってすぐ楽しくなってきました。

 

初めて迎えた冬も、音もなくしんしんと降る雪が珍しくて、暖かい部屋の中から眺めていました。

どういう条件かわかりませんが、時々、34ミリの結晶で降って来ることがあって、窓枠の外の雪の結晶が綺麗で飽きずに眺めていました。

豪雪地帯なので、一晩で何十センチも積もりますが、通勤時間までには除雪されているし、リビングにあるFF式の石油ストーブで家中暖かいし、給油は外にある石油タンクに定期的に給油してもらって月毎に支払うシステムなので、逆に冬が快適でした。

 

1995年、二人目の予定日は3月ですが、早めに1月に長男と里帰りしました。

夫に猛吹雪の中、千歳空港に送ってもらい、両親がお迎えに来てくれるはずの福島空港に降り立ちました。

しかし、両親がいません。

30分待っても、1時間待っても、現れません。

携帯電話のない時代なので、途中で両親が事故ったのかと心配になり、公衆電話から最寄りの警察署に交通事故の情報がないか電話しましたが、事故はないようで、ひたすら待ちました。

暗くなり、ロビーには誰もいなくなり、空港職員の人達も帰り、守衛さんが『ここだけ電気つけときますね。』と私達がいる所以外の照明が消され、薄暗い中、あてもなく両親の到着を待ち続けました。

どれくらいたったか、両親がロビーに駆け込んできて、110ヶ月の長男が両親に向かってトコトコ駆けて行って、やっと再会できました。

 

父は当時、クラウンに乗っていて、ノーマルタイヤだったので、金属チェーンを積んで家を出発して、途中、姉の家に寄ったら、義兄のクラウンのバンがスタッドレスタイヤを履いているから、そこから義兄の車で福島空港に向かったのですが、空港近くの坂がアイスバーンで登れなくて、コンビニの駐車場で念の為に積んできた金属チェーンを巻こうとしたら、同じクラウンでもセダンとバンではタイヤサイズが違って、巻けなくて苦労していたら、若い夫婦が針金を使ってどうにか巻いてくれて、やっとの思いで空港まで来たそうです。

いまだに母は何かにつけて、福島空港の暗いロビーの中からトコトコ走って来た長男が可愛かったと言っています。

 

実家に無事到着して、次の朝、テレビをつけたら、関西が大変な事になっていました。阪神淡路大震災です。

高速道路が壊れて、バスが落ちそうになっている映像とか、映画のようで現実とは思えませんでした。

 

31日の夜、陣痛が始まり、二人目なので早めに21時頃、父に病院に送ってもらって、一人で入院しました。

助産師さんに『日付が変わると1歳年取るので、今夜中に産みたいんですけど。』と言ったら、『今日中は無理ね。』と言われ、陣痛室でのんびり過ごしていました。

 

日付が変わり、陣痛の間隔が短くなってきましたが、全然耐えられる痛さで、長男の時の事を思ったらまだまだだなぁと思っていたのに、助産師さんに『あら、全開してる。はい、息んで。』と言われ、『え?もう?』って感じで、午前1時過ぎに次男が誕生しました。

 

長男の時は『二人目はパパが産んでね。』と夫に言うくらい大変でしたが、次男の時は安産で、『こんなに楽なら3人目も産めるかも。』なんて分娩台の上で思いました。

しかし、母子手帳を見たら、『臍帯頚部巻絡2回』と書いてありました。長男も『臍帯頚部巻絡1回』だったので、2人とも無事に生まれて来たのが奇跡に思え、3人目は『臍帯頚部巻絡3回』になりそうな気がしたので止めました。

産科の師長さんが『私も息子と誕生日が一緒なんですよ。お誕生日が一緒はいいですよ。』と言ってくれて、今では1歳若い31日より、同じ誕生日の32日に次男が生まれて本当によかったと思っています。

 

次男が生まれるまで、長男が世界一可愛くて可愛くて、長男以外の子を可愛いと思えるかしらと心配していたのですが、次男も可愛くて可愛くて、大事な宝物が二つに増えただけでした。

安産だと産後の体も楽で、二人目は心に余裕があって、ドンと来いと思っているのに、次男は手の掛からない夢のような赤ちゃんでした。

 

退院してしばらくして、320日に地下鉄サリン事件が起きました。

次男の生まれた1995年は、大災害と大事件が起こった年でした。

 

ところで、姉と私の名前は祖父が付け、甥っ子と姪っ子の名前は義兄が付け、長男の名前は夫と私が付け、父は子や孫の名前を付けた事がありません。

なので、妊娠中から二人目は男の子とわかっていたので、次男の名付けを父にお願いしていました。

父は図書館から何冊も命名の本を借りてきて、画数や響きを考えて、次男の名前を付けてくれました。

 

ゴールデンウィークまで実家でお世話になり、夫に迎えに来てもらって、北海道での親子4人の生活が始まりました。

 

夫は車通勤していたのですが、昼間、2歳の長男と赤ちゃんの次男を連れて出掛ける私が車を使い、夫は自転車通勤をする事にして、ホームセンターに自転車を買いに行きました。

9,800円のママチャリを買い、なぜか帰りに店頭で現金掴み取りが1回出来ました。

私が挑戦して、抽選箱の中の小銭をかき集めて、ガバっと掴んで、なかなか重たかったけど、落とさず抽選箱の丸い穴から上手く出して、外の箱に小銭を放して数えてもらったら五千円近くあり、夫とお店の人が驚いていて、自転車が実質半額になりました。

 

その頃には、アパートの奥さん達と生協を始め、毎週、仕分けの後はうちでお茶をするようになり、休みの日にはアパートの駐車場で家族ぐるみでジンギスカンをやったりしました。

 

新婚の頃、義母がジンギスカンを送ってくれましたが、その頃は、カルビの方が美味しいと思っていました。

でも、北海道で食べるとジンギスカンがとっても美味しくて、不思議でした。

 

長男と同い年のお友達とそのママ友も出来て、45家族でお互いの家を行ったり来たりして、みんなでトマムに旅行に行ったりしました。

長男は3歳になると、お友達と一緒に教会が運営しているプレ幼稚園のような『ひかりの子幼児教室』に通い始めました。

 

そして、夕張の両親と妹や札幌の兄家族とも行き来して、一族みんなで定山渓温泉に行ったりしました。

夫の両親と幼い息子達が一緒に過ごす時間を持つ事ができて、今となっては本当によかった。

 

一方、私の両親は私達が北海道に行って寂しくなったようで、父の誕生日におめでとうの電話を掛けて、長男がハッピーバースデーを歌ったら、電話を切ってすぐ、父から、『飛行機代出すから帰っておいで。』と電話が来て、1週間ほど帰省した事もありました。

 

結婚当初、若い夫(26)のお給料は安く、しかも奨学金シビックのローンの返済があり、節約生活を送っていて、岩見沢に来た時には返済は終わっていましたが、その頃は、社内預金の金利6%くらいだったので、目一杯社内預金に天引きされるようにして、生活費が振り込まれる北海道銀行の口座には常にギリギリの金額しかなく、相変わらず節約生活を送っていました。

 

明日がお給料日というある日、お財布の中は小銭しか残っていませんでしたが、『今月も頑張った。』と思っていたら、夕方、新聞の集金が来ました。

オバサンになった今なら、『悪いけど、明日以降来てもらえますか。』って言えるけど、その時は、そんな発想はなく、『わぁ〜、どうしよう。』と思いつつ、頭をフル回転させ、『そうだ、お祝い用にとってあるピン札があった!』と思い出し、新聞代を支払いました。

 

そんなピンチもありましたが、節約を頑張ったり、ボーナスや冬の暖房費(一冬10万円)が入って余裕が出来ると、礼文島利尻島、網走、富良野、小樽、ニセコ、冬のオホーツクなどなど北海道内をあちこち旅行しました。

 

冬は、車で10分ほどのスキー場に、夫が会社から帰宅してから 4人で行ってナイターで滑り(次男は夫が背負って)、スキー三昧でした。

 

北海道の雪は軽くてサラサラで、冬の外遊びは長男にスキーウェアを着せて、スコップで雪を掘ったり、公園の山でソリ遊びをしたり、雪遊び三昧でした。

赤ちゃんの次男もスキーウェアを着て、ベビカーで一緒に外にいて、昼寝も北欧の子供のように外でしていました。

 

その頃、長男は激走戦隊カーレンジャーが大好きでした。

1996年のクリスマスに、長男に5台の車が合体する大きなRVロボをプレゼントしました。

次男は10ヶ月の赤ちゃんだったので、小さな黄色いバスをプレゼントしたのですが、自分のプレゼントはショボいとわかったのか、ポイっと放り投げて見向きもしませんでした。

 

父から長男に、プラレールのトーマス&バーティーセットが届いて、長男がトーマスとバーティーを走らせて遊んでいると、赤ちゃんの次男が何気なく短い足を線路に伸ばしてトーマスを脱線させていました。

赤ちゃんだけど次男は色々感じているようだったので、それから息子達を双子のように平等に育てる事にしました。

 

そんな夢のように楽しかった岩見沢での生活が終わり、19973月、2年半ぶりに茨城に戻ることになりました。

消費税が3%から5%になるタイミングだったので、せっかくだから何か大きな買い物をしようということになり、トヨタのディーラーに3列シートのイプサムを見に行きました。

 

セレスで問題ないし、それほど買う気もなかったのですが、営業マンのオジサンがノルマがあるのかとても一生懸命で、とりあえず検討しますと帰宅したら、夜に、電話が掛かってきて、『いくらだったら買ってくれますか。』と聞かれ、ダメ元であり得ない金額を言ったら、『では、それでお願いします。』と言われ、すぐに契約書を持って営業マンのオジサンが自宅にきました。

契約書を書いて、判子を押して、『お支払いはローンですよね?』と言うので、『いえ、現金で。』と言ったら、オジサンがひっくり返りそうになるくらいビックリしていて、『ローンでもギリギリの価格だったのに。』と言いつつ、持ってきた景品のおでん鍋を持ち帰り、後日、札幌ナンバーのイプサムが納車されました。

 

数年後、岩見沢を訪れた時、そのディーラーの前を通ったら、閉店していて、うちのせい?とちょっと胸が痛みました。

 

茨城に戻り、今度は比較的新しい6階建の社宅の6階に住みました。

4月に長男が幼稚園(年中さん)に入園しました。

ある日、長男を幼稚園に送り出し、ベランダで洗濯を干していたら、2歳になったばかりの次男が、部屋の中からサッシの鍵を閉めてしまいました。

ご丁寧に小さなツマミも下ろしてロックまでかけられました。

あー、長男のお迎えどうしよう、夫が帰るまでベランダにいるの?とパニックになりつつ、次男にガラス越しに、『これ(ツマミ)上げて、これ()下げて。』と言ったら、すんなり開けてくれました。

2歳ですが、次男は全て知っててやっていたような気がします。

 

次男は年少さんから長男と同じ幼稚園に入ったのですが、入園の面接で、好きな食べ物を聞かれ『ミカン』(初耳〜)と答え、食べられない物を聞かれ、『アリンコ』と答えていました。

入園して暫くして、帰ってきた次男が『なんか紙もらった。』と見せてくれたのは、同じクラスの女の子からのラブレターでした。小学生のお姉ちゃんが代筆してくれたようです。

 

年少さんの次男は、幼稚園から機関車トーマスのアニメ絵本を借りてきていました。

私が何か数字を言うと、次男が何か言っているので、よく聞くと、1から50まであったトーマスの絵本のタイトルを丸暗記していて、私が言った数字のタイトルを言っていたのでした。

年中さんになると、長男が九九を覚えるより先に、次男が覚えてしまい、なんでも丸暗記するので、スーパーに買い物に行く時は、次男に買う物を言っておくと買い忘れがなく助かりました。

 

社宅にいる間に、私の実家を2世帯にリフォームして、1998年のゴールデンウィークに引っ越し、両親が3階で、私達が2階で、生活は別々で、協力はするけど干渉はしないというスタンスの2世帯同居生活が始まりました。

 

両親は宅配牛乳をとっていて、朝、息子達が交代で新聞と牛乳を取りに行って、3階まで届けると10円お駄賃をもらっていました。

そのお駄賃を貯めて、次男が伊勢甚(近所にあったデパート)で青い星のピアスを買ってプレゼントしてくれました。今でも大切な宝物です。

 

伊勢甚と言えば、長男は子供服のファッションショーでキッズモデルを務めました。ランウェイを歩いて、ポーズをキメていました。

 

伊勢甚と言えば、幼稚園の帰りに息子達(5歳と3)マクドナルドに寄った時、長男に二人分の幼稚園バッグと上着を持っててと頼んで、カウンターにハッピーセットを買いに行って、席に戻ると、2人は仲良く遊んでいて、でも、幼稚園バッグと上着はどこかに行方不明になっていました。

すぐに、店員さんが『お客様のですか。』と持ってきてくれたのですが、私は長男に小言を言ってました。

すると、次男が落ち着いた口調で『ママ、○○(長男)のこと叱らないで。』と長男を庇い、長男はお兄ちゃんだけどまだ5歳だったと反省しました。

 

息子達は、小さい頃から喧嘩したことなく、仲良しで、お互いにリスペクトし合っていて、現在に至ります。

 

夫は会社が近くなり、歩いても10分くらいなのに、自転車で通勤していました。

相変わらず、職場が嫌で、フィットネスクラブに通って、ランニングマシーンで走ってストレスを発散して、フルマラソン3回完走してしまいました。

そして、会社帰りは、家を通り越して、中華料理のミンミンに通って、ストレスを解消していました。

人事を通さず異動出来る社内FA宣言を使って、自力で異動して、新しい職場の方にゴルフに誘われ、夫はそれからゴルフが趣味になり、現在に至ります。

 

その頃、姉の所の甥っ子と姪っ子も小学生で、両親、姉家族、我が家の10人でよく食事をしたり、旅行に行ったりしました。

 

酔っ払うと太っ腹になる父は、夫がWindows98の話をしたら、『いくらするんだ?』と言い、日頃から家電量販店でパソコンをチェックしていた夫が、『ノートパソコンとプリンターで30万くらいですかね。』と答えたら、父が現金を持ってきて、義兄と夫に『これで買ってこい。』と30万円ずつ渡して、早速、同じ富士通のノートパソコンとCanonのプリンターを買ってきて、一族にWindowsの夜明けが訪れました。

 

また、ある時は、姉がタヒチボラボラ島に行きたいと行ったら、酔っ払った父が『みんなで行こう。』と盛り上がり、でも、子ども達が小さいし、タヒチは遠いので、グアムのP.I.Cに行きました。

とっても楽しくて、翌年もみんなでサイパンP.I.Cに行きました。

 

1999年、長男が小学校に入学しました。

長男は、物心が付いてから4歳まで北海道で過ごし、幼稚園は私立のキリスト教系だったので、茨城弁にあまり接して来ませんでした。

学校から帰ると、『イジヤケルって何?』とか、『イシケーって何?』と私に聞いてきました。お友達の茨城弁がわからなかったようです。

帰る時、お友達に『けーっぺ。』と言われ、状況から『帰ろう。』だなとわかったとも言っていました。

 

2000年、親子4人でシドニークライストチャーチを旅行しました。

私が1989年までワーキングホリデーでクライストチャーチにいた時に仲良くなったご夫婦と再会して、お互いに男の子達の親になっていて、おうちにお邪魔したり、2家族でアカロアにお出掛けしたり、楽しい時間を過ごしました。

 

20011月、札幌に住む義姉が雪で滑って足を骨折して、義母が夕張から札幌に応援行く前日、義母も部屋で転んで骨折して入院してしまいました。

義母は、車椅子に乗って、病院内を移動して、入院友達も出来て楽しくやっていると病院の公衆電話から電話をくれて元気だったのに、入院中に心不全で亡くなってしまいました。

あまりに突然の事で、とてもとても悲しい出来事でした。

叔母が、『子どもが3人とも結婚して、それぞれに孫がいて幸せだったね。』と義母に語り掛けていたのが印象的でした。

(○○家の嫁である義姉と義母が骨折したので次は私の番かもとビクビクしていたのですが、数年後、草サッカーの試合中に義兄が骨折して、いまだに私は骨折していないので、義兄が身代わりになってくれたのかも・・・)

 

その年の春、次男も小学校に入学しました。

全学年1クラスの小さな学校だったので、運動会は学年ごとではなく、低学年、中学年、高学年の3つに分けて競技を行い、その他にPTA、敬老会、子供会の種目があり、ほぼ家族の誰かが出番でビデオや写真撮影が大忙しでした。

 

長男は小学2年生から、次男は1年生から、ラグビースクールに入りました。

小学校の友達は、男の子は小学校のサッカー少年団に入っていたので、息子達はサッカー少年団も一時掛け持ちしました。

長男は、ラグビーは弱小チームでしたが、たまたまサッカー少年団の試合にキーパーで出たら、ちゃっかり優秀選手賞のトロフィーをもらってました。

 

2001年秋、OL時代の先輩から、『週に23日の大学教授秘書のアルバイトを家庭の都合で続けられなくなったから代わりに働かない?明日、教授と面接だから、一緒に行くよ。』と半ば無茶ぶりの電話が掛かってきました。

ずっと専業主婦だし、秘書なんて無理だし、そもそも不採用だしと思いつつ、翌日、先輩に連れられて面接に行ったら、『では明後日から来て下さい。』と言われ、突然、教授秘書のアルバイトをすることになり、夕方、携帯電話を買いに行き、初めて自分の携帯電話を持ちました。

その夜、テレビを見ていたらワールドトレードセンタービルに飛行機が突っ込んで、映画?と思ったら、9.11同時多発テロでした。

 

教授秘書の仕事は、国際会議の準備や受付をしたり、研究室のホームページを作ったり更新したり、CADで図を描いたり、色々な経験をさせて頂き、いい勉強になりました。

 

2002年、結婚10周年を記念して、親子4人で新婚旅行に行ったフィジーに行きました。

海が綺麗で、プールやビーチでたくさん遊んで、長男が足にブツブツが出来ました。

帰国して、皮膚科に行ったら、珊瑚に刺されていたそうでビックリしました。

 

2003年、息子達が犬を飼おうと言い出しました。

次男がゴールデンレトリバーがいいと言いましたが、お世話するのは私だろうから、シーザーのCMを見て私がいいなと思っていたウエスティを探しました。

ジョイフル本田のペットショップにウエスティの男の子がいて、一旦帰って、家族会議をして、息子達が学校に行く前に散歩に行って、ちゃんとお世話すると言うので、飼うことに決め、ペットショップに電話したら、売れちゃいましたと言われ、次男が床に崩れ落ちました。

 

ネットで調べたら、筑波にウエスティのブリーダーさんがいたので、電話したら、その時、そこには子犬がいなくて、その方の先生のブリーダーさんを紹介されました。

それが群馬県のグレーテル犬舎さんでした。

電話で家庭状況を聞かれ、譲って頂けることになり、しかも、尻尾が短い訳ありの男の子なので、10万円引きにしてくれました。

お迎えに行くまでに、必要な物を揃え、7月生まれなのでジュライと名前を付けて、ジュライのホームページも作って準備しました。

 

当時は、SNSもブログもなかったので、HTMLで作り、BBSという掲示板でやり取りしていました。

BBSのお陰で、ウエスティを飼っている方や、グレーテル犬舎の親戚さんと繋がることができました。

ジュライのお陰で、犬友ができ、世界が広がりました。

 

2005年、長男が中学に入学しました。

新入生代表挨拶をすることになり、ゴーストライターの私が挨拶文を考え、長男が巻紙に清書しました。

書き出しを『桜の蕾もほころび始め』にしたのですが、その年はなかなか開花せず、朝夕、ジュライと広場にお散歩に行って桜をチェックしましたが、1輪も咲かないまま入学式を迎えました。

(2年後、次男も新入生代表挨拶をすることになり、長男の時の挨拶文をそのまま使い回ししましたが、その年は桜がほころび始めていました。)

 

長男は中学入学と同時に、駅前に出来た塾に通い始めました。

小学5年生の次男も、こどもチャレンジやらないし、同じ塾に入れました。

で、次男を塾に入れてから、そこは学習塾ではなく、中学受験のための進学塾だったと知りますが、次男は塾が楽しくて、張り切って塾に通いました。

 

その数年前、父が卓球台を買ってくれて、息子達は毎晩、卓球に打ち込み、長男は中学校に行ったら卓球部に入ると言っていました。

が、部活紹介で剣道部を見たら、剣道がカッコよくて、剣道部に入りました。

 

人数が少ない部活で、3年生が引退したら、2年生1人と1年生2人しかいなくて、長男は剣道初心者なのに秋の新人戦から出場していました。

試合を見に行くと、確かに剣道はカッコよくて、私もちょっとやってみたくなりました。

 

夫はずっとサッカーをやっていたのに、昔から剣道とラグビーが好きで、長男がどちらもやってくれて嬉しかったようです。

 

小学5年生の次男は、相変わらず、見る物を片っ端から丸暗記していて、父が次男の部屋に世界地図を貼ったら、国名、首都、国旗などを覚え、ついでに元素記号も覚えていました。

そんな時、テレビ東京のテレビチャンピオンで小学生地理王選手権の募集をしていたので応募しました。

 

次男が6年生の冬、応募した事も忘れた頃に、テレビ東京から電話が掛かって来て、その頃、次男は地理に興味はなくなっていましたが、予選会に出場することになりました。

 

私は六本木に行った事がないので、予選が終わったら、六本木ヒルズを観光して帰ろうと次男と神谷町のテレビ東京に行きましたが、筆記試験2位通過で、本戦出場となり、説明を聞いたり、プロフィールを聞かれたり、契約書を書いたりしていたら、夜になり、六本木観光できませんでした。

 

本戦当日、第1ステージが終わったら、帰りに六本木観光と思って、テレビ東京に行ったら、第1ステージ通過して、芝公園での第2ステージも通過して、六本木観光出来ずに帰りました。

 

3ステージは横浜だったので、中華街でランチして帰ろうと思っていたら、第3ステージも通過して、船上での決勝に進出して、惜しくも準優勝で、中華街に行けずに帰りましたが、いい思い出になりました。

 

2007年、次男は私立や国立大学附属の中学校を受験して合格しましたが、地元の市立中学校に入学しました。

次男は卓球部に入りました。

夏休み、カデットの市内大会に出場し、塾の夏期講習の時間だから夫がお迎えに行ったら、勝ち進んでいて帰れないと連絡が来ました。

小学生の時から卓球少年団でやっていた子達に混じって、次男は3位になって、賞品に文房具をもらって帰ってきました。

その後も卓球の大会で、次男はユニフォームや靴下、果物盛り合わせなどの賞品をゲットしました。

 

中学生になると、中間、期末、実力テストで100点を取ると、母が1枚につき千円の賞金を出していました。

 

卓球は、ラケットのラバーがなかなかのお値段で、それを頻繁に替えるのですが、次男は母からの賞金で賄っていました。

ついでに、ラケットやラバーのカタログを見て、特性を丸暗記して、試合前のラケット交換で、相手のラケットとラバーを見て、どんな戦術でくるかわかったそうです。

 

その頃、夫がナイジェリア出張に行きました。

とても危険で、空港に着いたら、お迎えの人に屈んであの車まで走れと言われて車に乗り込み、助手席には銃を持ったガードマンが乗っていて、プラントに入るまで命懸けだったそうです。

入ってしまったら、日本人シェフがいて、美味しい日本食を食べられて、夫は太って帰国しました。

 

長男は小さい頃から父に、『○○くん(長男)N小、K中、H一高、I大工学部(全て家から近い公立)、パパの会社』と言われてきました。

高校は、予定通りH一高に入りましたました。

 

高校こそ卓球部に入ると言っていたのに、同じ高校のラグビスクールの友達に誘われて、ラグビー部に入りました。

高校生のラグビーは怪我が心配でした。

フランカーの友達は何度も骨折して、保険会社から怪しまれるほどジュニア保険を使ったそうですが、長男はスタンドオフというポジションだったので、怪我は親指の脱臼くらいで、ユニフォームも泥だらけになりませんでした。

月より遠い花園を目指して、高校3年の秋までラグビーを続けました。

長男は、高校で放課後に受けられる東進の映像授業を申し込んでいましたが、いつの間にかやめて、友達と3人で東京の同じ大学を目指して、図書館で勉強をしていました。

受験生にお夜食を作る気満々だったのに、長男は毎日23時ごろには寝ていました。

 

センター試験は、会場の大学が改装工事中で、長男の高校が会場になり、緊張感ゼロで受験できました。

長男は、二次試験直前になり、『浪人したくないから、やっぱりI大工学部にする。』と言い、機械工学科の願書を書き始めました。

I大工学部のパンフレットを見ていた私が、『機械工学科より知能システム工学科の方が受験科目少ないし、過去の倍率低いし、ロボット作ってて楽しそうじゃない?』と言ったら、あっさり知能システム工学科にすると言うので、I大工学部に新しい願書をもらいに行って、願書を提出しました。

無事に合格して、1年目の教養課程は水戸キャンパスなので、キャンパス近くの家具家電付き、水道光熱費込みのレオパレスを契約しました。

入学書類も送り、長男と家でのんびりしていたら、東日本大震災の震度6強の揺れに襲われました。

 

一方、次男は、M一高に入学し、卓球部の先輩が教室まで勧誘に来ましたが、バドミントン部に入り、勉強は全くぜず、バドミントンに明け暮れていました。

1の終わりの三者面談の時、担任の先生から、このままでは大学に行くのに高校4年までかかると言われました。

 

そんな次男は大震災のあの日、電車が止まって帰れなくなり、合宿所で朝まで過ごし、30キロ以上歩いて帰ってきました。

恩田陸さんの夜のピクニックのモデルになった歩く会を経験していたので、本人も私も帰って来れると信じていました。

 

夫は、東京出張の帰りに上野発14時のスーパーひたちに乗っていて被災し、石岡一高の体育館で一晩過ごして、翌日、タクシーで家を目指しましたが、東海村辺りで、渋滞で動かなくなり、タクシーを降りて、約20キロを歩いて帰ってきました。

夫もフルマラソンの経験が役に立ちました。

 

家の外も中も亀裂が入り、本棚や食器棚の中身や色々な物が落下して、足の踏み場もないくらい壊滅状態でした。

震災直後は、気持ちが昂っているせいか、寒さも感じず、ライフラインが止まって大変でしたが、明るく元気に片付けに精を出していました。

 

家の中が片付き、ライフラインが復旧して、テレビが見られるようになると、津波の被害に愕然としました。

福島第一原発が爆発し、放射線量が高くなったので、息子達は家から出ないで過ごしました。

長男の大学の入学式がなくなり、高2になった次男も自宅待機が続きました。

 

その頃は、父も元気で母と散歩に出掛けて、思いがけずセブンイレブンに商品が入荷した所に通りかかって、アイスやサンドイッチなどを買って帰ってきました。

 

常磐線が復旧し、次男が高校に通い始めましたが、余震で電車が止まることが度々ありました。

次男の高校の体育館は壊れて、次男が部活を引退する直前まで使えませんでした。

なので、部活はランニング中心で、体力が付き、バドミントンの試合でフルセットに持ち込むと、相手が先にバテて勝てると言っていました。

 

その頃になると、地震のたび、震源地がどの辺で、震度いくつくらいとわかるようになりました。

震度4までは慣れっこになりましたが、5弱以上は、携帯電話がビュービュー鳴るし、揺れは大きいし、怖くて慣れることはなく、心が折れそうになりました。

 

2になった次男は、共学なのに男子だけのクラスになりました。

私服の高校なので、1年の時は洋服をたくさん買って、お洒落して通学していたのに、男クラになったらジャージで通学するようになりました。

学年一の秀才くんと席が隣になり、当たり前に東大に行く秀才くんに『大学どこ行くの?』と聞かれ、次男はつい『京大』と答えてしまい、父から『筑波大に行ったら、車買ってやる。』と言われていたのに、それから志望校が京大になりました。

 

バドミントンをしに高校に行っていた次男は、このままではヤバいと思ったのか、高2の夏から河合塾マナビスに通い始めました。

京大で何かをやりたい訳でもなく、理系で一番入りやすそうな工学部のとある学科を受験しましたが、1年の担任の先生の予告通り、現役では合格できませんでした。

 

予備校に通い、模試でA判定が出ていましたが、最後の模試でC判定が出て、京大の受験票にあとはセンター試験のバーコードを貼るだけという時になって、次男が2浪はしたくないと言い、阪大の理系で入れそうな所を探し、受験しました。

次男は滑り止めの私立を早慶しか受けておらず、ドキドキでしたが、最初に慶應に補欠合格して(後日、電報で入学許可が届きました。)、阪大の受験の帰りの新幹線で早稲田に合格をネットで確認して、阪大理学部も合格して、2浪を免れました。

 

息子達はどちらも理系ですが、全然タイプが違います。

長男は小さい頃からブロック遊びやプラモデル作りが大好きで、大きくなってもテレビの配線や家具の組み立てや車が好きで、まさに工学部って感じです。

次男は物作りにも車にも興味がなく、数学の問題を解いたりするのが好きで、まさに理学部って感じです。

もし、次男が現役で受験した工学部にまぐれで合格したとしても、途中で合わなくて挫折していたかも。

 

長男は、大学2年から工学部のキャンパスになり、家から車で通学して、自分がお世話になった塾で講師のアルバイトをしていました。

生徒のアンケートで人気No. 1講師に選ばれたこともあったらしい。

 

4年の時、ヘビ型ロボットを作る研究室に入りました。

和気藹々とした研究室で、登山に行ったり、サバゲーに行ったり、スノボに行ったり、二郎系ラーメンに通ったり、楽しそうでした。

修士課程に進み、就活も売り手市場の時だったので、内定をいくつかもらい、夫と同じ会社に就職しました。

まさかの同じ建屋の同じフロアに配属になり、会社と家が近過ぎて社員寮に入れず、自宅から通勤という・・・。

長男は、小学校から大学院まで家から一番近い公立に通い、夫と同じ会社に就職して、父の言った通りになりました。

 

次男も大阪で頑張っていて、大学4年で研究室をどうするかという時に、M一高のOB会の関西支部の大先輩と食事をする機会があり、大先輩の助言を得て、現在の研究室に入りました。

次男には、修士課程までは授業料も生活費も負担するけど、博士課程に進む場合は自力でどうにかしてねと言ってありました。

博士課程から次男は、学術振興会の特別研究員(DC1)に採用され、研究奨励金で自活するようになり、夫と私の子育てが終わりました。

 

20208月、ジュライが17歳で永眠しました。

見た目はぬいぐるみで、中身は怪獣のジュライを、悔いなくお世話したのでペットロスになりませんでした。

そして11月には犬派の私がミヌエットのレンを家族に迎えました。

犬も可愛いけれど、猫もこんなに可愛かったんだと初めて知りました。

 

長男がひたちなか市の現地に1年間長期出張になり、ひたちなか市で一人暮らしを始めました。

その間に彼女ができて、結婚を考えていると言い、2人で出掛けた帰りに家に寄って彼女を紹介してくれました。

ひたちなかの次に愛知県での長期出張が決まっていたので、彼女の家に長男がご挨拶に行き、出張の前に両家顔合わせの食事会をしました。

彼女のご両親と気が合い、『入籍しちゃえばいいのにね〜。』と話が盛り上がり、話がトントン拍子で進んで、20212月吉日、二人はめでたく結婚しました。

多忙な二人なので、入籍だけで結婚できて、この時ばかりはコロナでよかったと思いました。

 

夫は転籍になって、秋葉原の本社勤務になり、松戸の寮に入って、満員電車の通勤を体験しました。

金曜日の夜に帰ってきて、日曜日の夜に寮に戻る生活を送っていたら、コロナ禍になり、寮に戻らず、家からリモートワークしていました。

そのうちに異動になり、1年ほどで単身赴任が終了して、寮を引き払って家に帰ってきました。

 

20215月、父が89歳で永眠しました。

父は夫が大好きで、同居する時、夫と私が離婚したら夫と一緒に暮らすと宣言していたほどでした。

父を大事にしてくれて、母も大事にしてくれて、夫には感謝の気持ちで一杯です。

 

30年前に夫と結婚して、素敵な家族になれて、私は幸せ一杯です。